お布施の起源 (千葉) 2008年9月9日


 はにわ道は道路の両側に埴輪がすらりと並んでいるかと思ったが、実際走ってみれば、たまにある位の道だった。勝浦の朝市に続き、これにもがっかりさせられた。
 この辺りの北関東には、古墳時代に広範囲に精力を持つ王国があったと以前テレビで見た事がある。古墳も多くあるので、埴輪やなどの出土品がザクザク出てくるのだろう。

 道に埴輪が全然ないので、代わりに芝山町にあるはにわ博物館を訪れた。博物館は芝山仁王尊がある観音教寺にある。
 江戸時代には成田不動尊と共に「芝山仁王尊」として民間信仰を集めていたという仁王尊は、山門の左右にある畳が敷かれた部屋の中に祀られていた。こういった作りは、この地方独特のものであるらしい。

 境内には三重の塔もあり、はにわ博物館は本道の横にあった。ここも成田空港のすぐ近くにあるので、着陸する飛行機が上空をバンバン飛んでいる。それも低空で間近なので音もうるさい。
 山門に置いてあった印刷物の中に、仏教におけるお布施の起源の話があった。その内容こういうものだった。

 托鉢をする坊さんに大人たちが食料を分けていたところ、それを見ていた子供がままごとのように真似して砂をあげたという。 食べ物の中に砂を入れられた坊さんは、それでも嫌な顔を一つもしなかった。それが釈迦であるブッダだったという。
 子供にしてみれば、遊び道具である砂はお金や食事にも似て大切なもの。それを分けるという行為そのものが、本来のお布施であるらしい。

 博物館に入ると受付の係員がいなかった。どうやら厄払いの客を相手してるらしく、しばらく待ってくれとの木札があった。待ってられないので料金は後で払えばいいやと、先に中を覗く事にした。

 館内には6世紀頃に作られた埴輪の数々や生活用具、ボートなどが展示されていた。中には1mくらいの大きさの馬や男の埴輪があった。多くは修復されてるが、1400年前のものが未だに存在するのも凄いことだ。
 現在はテクノロジーが進化して物が溢れているが、1400年後にも残る物はどれくらいあるだろうか。

 一通り見て出たが係員が戻ってこないので、無料で見させて貰った。国民の財産をちょっと見ただけだ。バチも当たらないだろう。これは寺から私へのお布施として受け止めることにしようと都合よく考えた。
 仁王尊がある山門を降りていくと、ほら貝を吹く爺さんがいた。おそらく練習中なのだろう。たまに音が出るのだが、ほとんどがスースーと息が漏れた音で間抜けな感じだった。

 成田山新勝寺までは空港を右手に見て走るはずだったのだが、二差路で知らぬ間に右の方向へ行っていたらしく、気が付くと左側が空港になっていた。旅行以外で空港などに来ることもなく、こんな所を自転車で走っているのも妙な気分だった。

 空港を抜けて新勝寺を参拝。さすがに人気がある寺なのか、平日にも関わらず参拝客が多く外人もいた。本堂の中では熱心に祈る若い男や、絵馬に祈願を書き込む若い女の姿などがあった。
 日本には宗教がないと言われるが、賽銭あげて祈る姿やこういった若者の姿を見ると、日本人の多くは信心深いのだなと改めて思わされる。

 今夜の寝床を利根川沿いの長門川公園に決め、成田駅前からローカルな県道18号線を走る。広い公園を想像していたが、到着してみれば公園といっても土手にベンチがあるだけで、大部分は野球場やサッカー場が占めていた。それでもキャンプするには何の問題もないし、近くにコンビニもあったので便利だった。

 テントを張り終えてベンチで一杯やろうとすると、サイクリングしていた若い女の子二人が休憩にやって来た。彼女たちは千葉市から自転車を車に乗せて来たらしく、車を置いてこの辺りをサイクリングしていた。一人はハングライダーの趣味を持つアクティブな子ですっかり話が盛り上がった。

 友人にバイク旅を趣味にする奴がいるので声を掛けたところ、ここまで出てくるということになった。仕事が終わってからなので、彼の到着は12時頃だった。それから朝の4時まで酒盛り。今日朝の5時から起きている自分としては、我ながらタフだなと実感した。




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