発展と転倒 (アユタヤ) 2003年7月31日〜8月1日


 スコータイから直接カンチャナブリ−まで行きたかったのだが直通バスはないらしく、アユタヤで降りてスファンナブリ行きに乗り換え、さらにそこからカンチャナブリー行きに乗らなければならなかった。
 朝早く出発したので無理すれば今日中にカンチャナブリまで行けたが、それは疲れるのでアユタヤで1泊していく事にした。

 アユタヤのハイウェイから乗合ソンテウで中心部へ向かった。アユタヤには5年前に一度訪れているが、その時はバンコクからの日帰りだった。今回はガイドブックも持ってないので、どこが安宿のエリアなのかも分からない。

 勘だけを頼りに、まず目に付いた繁華街でソンテウを降りた。しかし、ここには飲み屋やレストランが多いだけで宿は見当たらない。中心部はまだ先だというので、もう一度ソンテウに乗り込んだ。

 大きな市場で乗客のほとんどが降りたのでそこを散策してみると、バッグパックを背負った西洋人の女達を見かけた。彼女たちを追うと「トニーズ・パレス」という安宿に着いたので、迷わずそこにチェック・イン。

 オーナーと思われるトニーが、ライトアップされた遺跡を巡るナイト・ツアーを早々に勧めてきた。料金は100バーツ。夜のアユタヤ遺跡は見てないし滞在は今夜だけだったので、このツアーを申し込んだ。

 アユタヤは11世紀頃にクメール人により建設され、1350年にアユタヤ朝の創始者ウートーン王が同王朝により建設されて首都になり、1767年にビルマ軍に破壊されるまでタイの中心都市として機能していた。この間に建てられた建造物群が、ユネスコの世界遺産に登録されている。

 記憶の中にある5年前の様子とはまるで変わり、周辺はすっかり地方都市の外観になっていた。おぼろげな記憶の中のアユタヤは、遺跡以外は何も無く、道路も舗装されてない田舎町だったが、現在はコンビニ、マクドナルド、インターネット・カフェなどが並んでいた。
 それもそうだろう。日本でも5年経てば、町の様子は幾分変化する。ましてや急速に発展しているタイではなおさらのことだろう。

 トニーズ・パレスの入口には、オープン・レストランもあった。そこで酒を飲んでいた時、隣のテーブルには日本人の若者2人が特有の会話をしていた。向かいのテーブルには西洋人の男女が3人が、これまた特有の仕草で会話をしている。

 しばらくすると、日本語を勉強しているという流暢な英語を話すタイ人の学生が来た。彼と世間話をしていても同様の事を感じた。
 言葉だけでなく行動や仕草にも、民族によって癖がある。インドから旅を始めて半年間、様々な人間に会ってそんな事に気付くようになっていた。

 遺跡を巡るナイト・ツアーの客は、同じ宿に泊まる数人の観光客。彼らとミニバンに乗り込み遺跡群へと向かった。
 ライトアップされた遺跡は、昼間見る姿とはまた一味違う。暗闇の中に静かに佇むその外観は、歴史の深さを滲み出しているようだった。

 ツアーの後半から雨が強く降り出した。おまけに、後半のメインだった遺跡に到着した途端、ライトアップしているライトが消えて何も見えなくなった。まるでコントのようで、点灯ならぬ転倒するオチのようで笑えたツアーだった。




Copyright (C) 2019 諸行無常 All Rights Reserved