最南端 喜屋武岬 (知念岬〜喜屋武) 2010年3月16日


 知念岬公園に張ったテントの中で早々眠りに就いていると、23時頃に見回りに来た警備員に起こされた。寝ぼけながら事情を説明して追い出されずに済んだのだが、そもそもここはキャンプ禁止だったのかもしれない。

 朝になって出発する時、展望台から朝日の写真を撮っていたおじさんと出会った。毎日欠かさず朝日の写真をここから撮ってるらしく、既に1300日くらい続けているという。ブログにそれを載せてるようで、私の事も載せていいかと写真を撮ってくれた。
 頂いた名刺を見れば仲善という会社の代表取締役。これから仕事で東京に行かなければならないと、この社長は去って行った。

 雨が降ったり止んだりのパッとしない天気だが、岬からの道はのどかで気持ち良い。この辺りは高台になっており、眼下にはビニールハウスがある畑が広がっていた。ハウスの中では今はパッションフルーツを栽培していると、農家のおやじが言っていた。

 便所に行こうと志真屋の公民館へ向う途中、路地でちょっと変わった50代位のおばさんが近寄ってきた。方言なのでよく分からなかったが、サーティンワンとかサーティンツー、空港がなんだとか言っていた。

 多分、キャリーカートを引く私の事を、パイロットか何かと勘違いしたのかもしれない。電話番号を教えてくれというのは、はっきり分かった。これが若くて可愛い沖縄娘だったら、住所まで全部教えたのだが。

 昼には平和記念公園に到着。その後、ひめゆりの塔も見学。ひめゆりでは高校生の修学旅行団体と鉢合わせ、うざったくてしょうがなかった。
 どちらも外観だけ見て足早に立ち去ったが、戦地であった沖縄で何の罪もない多くの人間が死んだ事を考えると、今の平和もいろいろな犠牲の上に成り立っているのだという事を改めて感じた。

 雨は止んだが風が強くて寒い。目指しているのは最南端の喜屋武岬。最北端の辺戸岬の時もそうだったが、どうも岬に来ると、寒くなる旅のようだ。

 喜屋武の周辺には人参畑が多く、上空では着陸態勢の飛行機を頻繁に見掛けた。それを見て、那覇空港に近づいてきたという実感が沸いた。
 畑の間の細い道を進んだ先に喜屋武岬はあった。辺戸岬に比べるとかなり狭く、数台の駐車スペースと平和の塔という青色のモニュメントがあるだけ。

 観光客を連れたタクシーの運ちゃんが、岬の事を説明をしていたので盗み聞き。それによると、ここは沖縄戦で米軍に追いつめられた住民や兵士が、自決するために身を投げたという場所。平和の塔は犠牲になった1万人の霊を弔う碑だった。

 喜屋武にある名城ビーチを今夜の寝床に予定していたが、つまみを買うのに立ち寄った商店でビーチは数年前に閉鎖したと聞かされた。だが、集落から西に下ったところに小さな浜があるというので、そこにテントを張ることにした。

 まだ夕方で明るかったので、中学生くらいの若者3人が浜をうろついていた。私がテントを張ったのは防波堤のような壁の前で、その上は歩けるようになっていた。
 疲れているのでテントの中に横たわり、泡盛をかっ喰らっていたのだが、若者たちが防波堤の上を歩いて通りすぎる声が何度か聞こえてきた。

 中にいる私の事が気になるのだろう。わざと木の枝で防波堤を叩いて音を出したりしている。終いにはジャンケンをして負けた奴が「俺やだよ」とか言っている。何が起こるかは安易に想像できた。

 ジャンケンに負けた奴だろう。私のテントに石か何かをぶつけ、走って逃げていきやがった。こちらは怒る気もとうに沸いてこない疲れた酔っ払い。もし2回目があったら顔を出して文句を言って驚かせようと思ったが、そうなることなかった。

 那覇から始めた歩き旅も10日目になり、最南端である喜屋武にまで到着した。ここから那覇まではあと20kmくらいなので、明日の昼にはゴール出来るだろう。前祝だと泡盛残波をいつもより多く飲み、最終日の英気を養った。

[この日の写真]




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