達成のご褒美 (喜屋武〜那覇) 2010年3月17日


 いよいよ歩き旅も最終日だという高揚の為か、早起きして7時には喜屋武の浜を出発。浜から坂道を上がっていくと、おばちゃんが家の前で掃除をしていた。旅の経緯を説明するとコーヒーを飲んでけと玄関に招かれた。

 生まれも育ちも喜屋武というおばちゃんの話は面白かった。沖縄本島はそれ程大きくないが、それでも隣村とは言葉も性格も違うという。
 喜屋武の言葉は表現が硬いらしい。それは私がキャンプした近くにあった石水(井戸の水)を飲んでるからだと言われ、地元の民謡にも歌われているという。

 隣村でも言葉が違うので、北部と南部では言葉が通じない。沖縄諸島の島々でもそれは同様らしい。関係ないが、那覇で最初に宿泊した安宿で聞いた話では、沖縄で商売を成功させてるのは宮古島の人間と中国人だという。

 飲むと言えば、本島の女は酒をほとんど飲まないらしい。だがそれはおばちゃんなどの年配の女性の話で、今の若い子はどうだか分からないようだ。
 御嶽も集落ごとに何ヶ所かあるらしく、今でも月毎に御神を崇める儀式が行われてるという。

 琉球王朝の末裔は今でもいるのかと聞いてみると、詳しくは知らないが久米島かどっかにいるんじゃないかとも話していた。
 こういう話を方々で聞けると期待していた旅だったが、あまり人と出会う事がなく、なかなか機会に恵まれなかった。やはり早起きは三文の徳である。

 30分程話し込んだ後に再出発。那覇までは16km。足取りも軽く快調に歩く。糸満市に入ると旅の間に何度も見掛けた「サンエー」や「かねひで」というスーパーがあった。これも見納めだろうと思うと、何だかスーパーにさえ郷愁すら沸いてくる。

 そう言えば、あちこちで「100円そば」という暖簾を掲げた店もよく見た。体を動かしてるので水っぽい飯を食いたくなく、一度も入る事はなかったが、多分カップラーメンくらいの量のものだろう。

 豊見城市を超えて那覇市に入ると、航空自衛隊の施設が現れた。那覇空港は自衛隊と共同利用なので、到着した際にも空港で戦闘機を見た。空港の周辺には航空自衛隊だけでなく、海上や陸上自衛隊の駐屯地、海上保安庁なども隣接していた。

 那覇の安宿で見た地元の新聞に、軍用地の広告がけっこう載っていた。沖縄では会社や組合、個人などが投資先として、その軍用地を利用するらしい。
 管理は国任せなので煩わしい事が全くなく、アパート経営などの投資物件と違い、確実な収入が入ってくるので人気があるようだ。

 海上保安庁の先には巨木の形をしたレストランがあり、その横に大きな鳥居があった。その二つよりも私の目を釘付けにしたのは、反対側にあった「漫湖」という道路の案内標識。標識には漢字の下にローマ字で「Manko Wetland 2,3Km」と記されていたのだ。

 どんなところなのだろう、凄く行ってみたい。濡れ地だから、その場所は既にイッテるのだろう。とにかく、お楽しみならばいつかまた沖縄を訪れた時に取っておこうと、明治橋を渡り先へ進んだ。

 そこから30分歩き国際通り到着し、遂に徒歩での沖縄一周旅を達成した。よくもまあこんなに歩いたもんだ。初めはどうなるかと思ったが、成せば成るものだ。
 感動も束の間、腹が減ってたのでその足で牧志公設市場へ向い、2階の食堂でイカ墨汁そばを平らげた。

 購入した航空券には、カプセルホテルに1泊無料で泊れる宿泊券が付いていた。これを利用してカプセルにチェックイン。5日振りにシャワーを浴びて体を洗う。風呂に浸かるのは2週間振りだった。

 旅の達成には宴が必要だと、夜は真栄原社交街に繰り出した。けっこう広い置屋街だったが、時間が早かった為かまだ店がほとんど開いてなく、女のいる店は数件だった。
 うろつく男共の中に、家に帰る途中のジャージを着た女子中学生が歩いていたのは滑稽だった。
 ここの相場は15分5000〜30分1万円で、アジア顔の女はいなくほとんどが日本人。そんな真栄原社交街で私が遊んだかどうかは、想像にお任せすることにしよう。

 その後、国際通りに戻り最初に泊った安宿に顔を出してみたが、知ってる顔が一人もいなかったのでカプセルに帰宅。泡盛残波を飲みながらあちびー(豚の頭皮)をつまんでリラックスし、11日間のホームレス生活から社会人に戻った。

 昼飯に訪れた牧志公設市場で食品店のおばちゃんと話した時、金に換えられない経験をしたねと、この歩き旅の評価をしてくれた。
 ただ歩くだけの旅だったが、これは忘れられない旅となった。またやろうという気は今のところないが、この先もまた馬鹿げた旅をしたいものだ。

[この日の写真]




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