ネパールの沈没地 (ポカラ) 2003年4月18日〜5月5日


 タンセンからポカラへのバスは1日1本で朝6時発。5km離れた乗り場からは何本か出ていると聞いていたが、早朝目覚めたので6時発に乗ろうとした。
 しかし、チェックアウトしたくてもリセプションが開いてない。おまけにホテルの入口の門は鍵が掛けられ、外に出る事も出来ない。

 同じようにチェックアウトに困っていた客が、しきりにドアを叩いたり呼び鈴を鳴らしていたが、オーナーはまったく起きてこない。
 ホテルの横には隣接する店があったので、そちらのドアも叩いていると店の主が起きてきた。通りに面する店のシャッターを開けてもらい、隣の店の中からようやく外に出れた。

 ポカラまでは8時間、蛇行する山道をひたすら走っていった。バスに酔った何人かの乗客は、窓からゲロゲロと吐いている。冷却水が漏れてバスが故障し、修理で1時間足止めになる事もあった。

 ポカラのダムサイドからはミニバスでレイクサイドへ向かい、ぺワ湖畔の宿にチェックイン。近くに食堂があったので、そこで早速にネパールの庶民食ダルバートを食べた。これが料金も安く美味い。
 夫婦が経営する店は、地元人しか来ないような雰囲気。赤ん坊を抱えていた店の奥さんは私がいても気にすることなく、乳房を出して乳を飲ませていた。

 ネパール第2の観光都市でもあり沈没地ともいわれるポカラは、のどかな空気が流れるこじんまりとした湖畔の村。
 市内からは晴れた日には、ダウラギリ、アンナプルナ、マナスルという標高8000m級のヒマラヤの山々の頂きが望める。またポカラはヒマラヤ方面へのトレッキングの出発地でもある。

 ポカラの周辺はレンタルした自転車で散策した。侵食水流のデビズ・フォールは、デビという外国人が落ちたのが名の由来。深い切り込みのような割れ目に、川が吸い込まれていくようなものだった。

 中国政府の圧力から逃れてきた政治難民が集まるチベタン難民キャンプには、観光客向けの土産屋も多くあった。
 緩やかな坂を上りながら、オールド・バザールへも行ってみた。この日はストライキで全ての店が閉まり、通りには市民の群れと警察官が睨み合い、ピリピリしていた。

 旅してからずっと持っていたダウンジャケットが必要なくなったので、町にあるチベタンの土産屋で物々交換を試みた。
 最初はシンギング・ボールやタルチョなどと交換しようと思ったが、仏教画のタンカを見ている内にこれが欲しくなった。店のおやじとの交渉の末、ジャケットとタンカの交換が成立。昔の人々もこんな風に物を交換していたのだろう。

 ぺワ湖でカヤックに挑戦している時に突然強い雨と風になり、穏やかだった湖が日本海のように豹変した事があった。湖がこんなに荒れるとは想像もせず、いきなりの上級者コースには参った。

 ぺワ湖の対岸の丘の上には、日本人が建てた妙法寺というストゥーパがあったので、晴れた日に出掛けてみた。丘からはぺワ湖やサランコットの丘、そしてその向こうににそびえ立つヒマラヤ山脈までが一望出来た。標高8000m級のヒマラヤの山々の存在感は、その白さ以上に一際輝くものだった。




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