ギリギリセーフ (ヤンゴン) 2003年7月19日〜21日


 昼過ぎにバガンを出発したバスは、早朝5時頃ヤンゴンのバス・ターミナルに到着。スーレー、スーレーと叫んでいるバスに乗り、ヤンゴン市内のチャイナ・タウンへ向かった。
 今回泊まった宿はその付近にある「ホワイトハウス」。部屋はドミトリーだが、前回泊まった宿よりも安く、3ドルで朝食も付いていた。

 朝食は最上階のレストランでバイキング方式。かなりのおかずや果物を満腹になるまで食べられるものだった。最初に泊まった宿はスーレー・パゴダの目の前だったが、朝食はトースト2枚にコーヒーとえらくしょぼかった。

 数時間眠った後で起きると、同室に日本人の若者がいた。彼からヤンゴン市内にあるタイ・エアーのオフィスが今日もやっていると聞いた。
 場所を教えてもらい行ってみたが、運悪く20分前に閉店。明日もう一度来なくてはならなくなったので、ヤンゴンでもう1泊するはめになった。

 出国税の10FECを含めないと、残金は今日の食費と空港までのバスの料金だけ。どうしようかと考えていると、タイのバンコクで使う為の交通費が5ドルをある事を思い出した。ここから3ドルをもう1泊の宿泊費に当てるしかない。
 ミャンマーはATMでの引出しが不可能だったので、明日オフィスに行って明後日のフライトに変更できなければ、もうその後の生活費はなかった。

 翌日タイ・エアーのオフィスに行くと、すんなりとフライトの変更が出来た。それも今夜の便に出来たので、残金だけで足りることになり心配の種がなくなった。もし変更が出来なかったら理由を話して頼み込むか、無理ならばその後は野宿する覚悟だった。

 宿を昼の12時にチェック・アウトし、夜8時のフライトまで市内を散策して時間を潰した。スーレー・パゴダは何度訪れても飽きる事がない。
 この日もパゴダの中は、熱心に祈りを上げる人々で溢れていた。若い女性が座り込んで熱心に祈る姿は特に美しく見えた。

 もう1泊分の3ドルを払う必要がなくなり金に余裕が生まれたので、スーレー・パゴダの横の公園の脇の酒場で、1杯200チャットのビールを何杯か飲みながら、安堵のため息をついた。
 食事もボリュームのある朝食以外は、料金の安いモヒンガだけで済ませていたので、つまみをいくつも頼み、出国前にささやかな宴を楽しんだ。

 泊まっていた宿のおばちゃんから、空港の近くまではローカル・バスで行けるが、そこからはピックアップに乗り換える必要があると聞いていた。
 しかし、バスを降りた周辺では、ピックアップは見当たらない。しばらく歩くと交差点から「Yangon International Airport」と書かれたアーチが見えたので、そのまま歩いて行った。

 出国でも入国の際と同様にサーズの検査をされた。熱も測られたが36.5度と平熱で、数日前の病気がぶり返している気配はまったくなかった。
 すでに明かりが点ったヤンゴンの町を見下ろしながらタイのバンコクへと向かい、23日間いたミャンマーに別れを告げた。

 軍事政権の下で閉ざされた世界とも言えるミャンマー。しかし、人々は素朴で田舎の民族たちも個性的だった。
 鎖国のように情報を遮断することで国の文化が守られるのか、または、全てを開く事で様々なものに触れ、新しい形が生まれるのか。どちらがいいのかは分からない。一つだけはっきり言えるのは、FECは使うのが不便な金だという事だ。




Copyright (C) 2019 諸行無常 All Rights Reserved