トンネルを抜けて (山口〜福岡) 2011年11月9日


 東京を出発して9日目。本州最西端の山口県にも入り、残る宿場もあと11ヶ所。西国街道も今日が最終日になる。ゴールの赤間神宮には夕方前に到着し、そのまま九州に渡る事ができるだろう。
 西国街道の初日に雨が降っただけで、9日間は天気にも恵まれてきた。バイクのトラブルもまったくない。淡々と走るバイク旅は単調でもあるが、人生でも平凡が一番だ。

 西緑地キャンプ場を出発して徳山、福川と巡り、富海の手前で椿峠を通過。旧道から国道に出る角には、ユニークな建物の「「天野屋利兵衛」というドライブインがあった。
 天野屋利兵衛とは、赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支援した商人。生まれがこの近くの四郎谷なので、地元じゃ有名な人間なのだろう。支援しすぎて金がなくなったのか、ドライブインは既に閉店していた。

 富海から宮市へ向かう浮野峠は、走り甲斐のある竹薮のダート道だった。峠の急な坂を上がるのに、昔の大名たちは駕籠に乗っていたようだ。ここにはその際に休憩した「駕籠立場跡」があった。
 峠を抜けてしばらく走り、日本三大天神の一つである防府天満宮に到着。ここは学問の神様として崇められる菅原道真を祀った「日本最初の天満宮」。

 向かいには「天満屋」という土産屋があり、米菓子の名物「酒垂岩おこし」が大きく宣伝されていた。この地の土産物として数百年前からあったようなので、西国街道を歩いた旅人たちも食べたことだろう。

 新幹線も停まる厚狭駅前には、三年寝太郎の像があった。仙人のような容姿をしたこの男は、この地方に伝わる民話の主人公。
 それは、3年3ヶ月も寝ていた庄屋の息子の寝太郎が、突然アイデアを思いついて財を成す。その儲けた金で堰を作り、それまで荒れ地だった野原を水田にしたという話だ。

 一攫千金を掴んだ厚狭ドリームのヒーローなのだろう。土産屋には「寝太郎もち」や「ごろり寝太郎」などの銘菓、木彫りの寝太郎人形、その名が付く焼酎などが売られていた。毎年恒例の「寝太郎の祭り」もあるというので大変な人気振りだ。

 吉田宿の近くには、高杉晋作と奇兵隊士の墓がある東行庵があった。ここは晋作の愛人だった「おうの」が、彼の死後に尼となって菩堤を弔った場所。駐車場では強引に結びつけたと思われる「晋作もち」が売られていた。

 小月宿の近くには日清食品の工場があり、カップ麺の元祖である「日清カップヌードル」の大きな模型が屋上に飾られていた。
 インスタントラーメンやカップラーメンを発明したのは、日清の創業者である安藤百福氏。人類の食文化を革新した偉大なる業績だ。江戸時代にこんな食べ物があったら、旅人たちもさぞかし便利だったことだろう。

 最後の長府宿を訪れた後、国道9号線を走ってゴールの赤間神宮に到着。京都からここまでは5日。長いこと走り抜けてきた達成感は小さく、むしろ「やっと着いた」という安堵感が大きかった。

 事前に調べた西国街道の距離は約500km。私は方々で寄り道したり間違えたりしたので、バイクのメーターでカウントした総距離は約750kmだった。どこも寄り道しない宿場巡りだけなら4日で回れただろう。

 小学校の頃に国語の時間か何かで、「耳なし芳一」の話を聞いた覚えがある。琵琶が得意な盲目の法師が、平家の怨霊から身を守るために全身にお経を書くが、耳だけ書き忘れて切られてしまうという話だ。
 その芳一が住んでいたのが、この赤間神宮だったとは知らなかった。私もこの先で警察に違反切符を切られぬようにと、神宮内の芳一堂で祈願をしていった。

 今日のキャンプ地は関門大橋を渡った先にある和布刈公園。時間が早かったので赤間神宮近くの銭湯で5日分の汗を流し、国道2号線に出て関門トンネル入口へ向かった。

 料金所で金を払おうとすると、原付の通行は人道トンネルからとのこと。仕方なく一度通過した関門大橋の下まで戻り、歩行者と同じ人道トンネルを歩いて九州へと向かった。
 通行料金20円のトンネル内ではランニングをする者が多いて、なぜだか知らないが右側通行になっていた。

 九州側の地上に出てから和布刈公園の入口がよく分からなかったので、一通の山道をおもいっきり逆走して上がって行った。
 公園の横にはめかり山荘というホテルがあったが、一通の道は夜間通行止めになるようだったので、夜中に人が来ることもなさそうだ。

 第2部の旅だった西国街道も今日で終了。東京からここまで約1400km。我ながらよく走ってきたもんだと感心した。だが旅はまだ終わっていない。明日からは今回のメインである第3部の旅、九州八十八ヶ所巡りが始まる。

[この日の写真]




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