宮島の鹿 (広島〜山口) 2011年11月8日


 広島の比治山公園を出発し、市内で広島城と原爆ドームを観光。 広島城は豊臣秀吉の五大老の一人として知られる毛利輝元が築いた城。堀の中央に復元された大天守があり、中に入らなくても外から充分に眺めることが出来た。

 原爆ドームを訪れたのがちょうど8時15分。原爆が落とされた時間である。スピーカーから鐘の音がなり、訪れていた観光客が黙祷をする姿もあった。現在は平和のシンボルとして有名な原爆ドームは、元は広島県物産陳列館だったという。

 廿日市宿には一里塚跡や街道松などがあり、昔の面影が少し感じられた。丘の上にある廿日市天満宮からは、市内や瀬戸内海の景色を眺められた。
 玖波宿に行く前には、フェリーに乗って宮島へ渡った。ここを訪れるのは二十数年振り。厳島神社へ向かう参道には広島名物の牡蠣やもみじ饅頭を売る店が並び、島のあちこちには野生の鹿がいた。

 宮島に鹿がいるのは記憶になかった。6000年前にここが島になる以前から住み着いていたというから、過去にも見たはずなのだろう。
 その鹿たちの飢えが最近問題になっているようだ。山には食べ物がなく給餌も禁止。飢えている鹿は牡蠣の殻やゴミをあさる程に餓死寸前だという。

 県道1号線で山を越え、山口県に入って錦帯橋を観光。錦川に架かる五連アーチの錦帯橋は、日本三名橋や三奇橋一つ。
 橋の先の山頂には岩国城があり、絵になる景色が広がっていた。名物の岩国寿司が売っていたが、既に昼飯を食べてしまっていたのでお預。

 次の関戸宿は調べた場所が間違っていて、訪れたのは御庄宿だった。私は西国街道を51次として巡っているが、調べたところ山陽道で51次としてる人もいた。
 その場合は1番が尼崎からで2番の西宮からは同じ、その後の姫路と正條の間に「鵤」、関戸と本郷の間にこの「御庄」、徳山と福川の間に「富田」が加わり、下関が51番目になる。

 もはや私の目的は宿場めぐりよりも、下関まで走る事に変わっているので、場所を間違えたことは大した問題ではなかった。

 NHKの大河ドラマでも有名になった篤姫は、徳川13代将軍家定に嫁ぐため、薩摩から江戸に向かっている。ドラマでは海路で瀬戸内海を通過したと描かれていたようだが、古文書の発見により陸路で江戸へ向かった事が裏付けられたようだ。
 解明されたおおよそのルートによると、鹿児島の鶴丸城から薩摩街道を北上し、熊本を通過しながら長崎街道に入り小倉へ到達。山口からは西国街道で京都へ向かっている。

 西国街道では高森宿の本陣に宿泊。翌日、錦帯橋に立ち寄り玖波宿で宿泊。その数日後には矢掛宿本陣に泊まっている。そういえば矢掛宿で名物の「柚べし」を売る店を覗いた時、篤姫も食べたと書いてあった。

 九州の薩摩街道での日程はかなり判明しているようで、宿泊や昼に休憩した御茶屋はほとんど分かっているようだ。西国街道は矢掛から京都までが不明。これらがはっきり解明されれば、西国街道の人気も随分上がる気がする。

 今回のバイク旅では、基本の格好は防寒防水スーツ。バイクで走っている時はちょうどいいのだが、11月上旬でも日中は暖かいので、歩いて動くと汗を掻く。すると内側が汗でヌルヌルになって気持ちが悪い。
 他に持ってきた衣類はジーパンとフリースだけ。その格好だと若干寒いので、ヌルヌルを我慢して防寒防水スーツを着ていた。

 1週間分の汗が染み込んで臭くなったそのスーツを洗いたかったので、高森宿の先で見つけたコインランドリーでまとめて洗濯。予定では明日には下関に到着するので、時間調整にもちょうどよかった。

 その後、今市、呼坂、久保市の宿場を巡り、日没前に花岡宿に到着。次の徳山に向かう手前に、無料の西緑地キャンプ場があったので、今夜はここに泊まることにした。
 キャンプ場はそれ程広くはなかったが、水道もトイレあるので申し分ない。それに今晩はゲリラキャンプじゃないので、久々に堂々とくつろぐ事ができる。

 だが、こういう時に限って邪魔者が現れるのだ。夜も更けてきた頃に、野良犬のお出ましだ。犬はテントにやや近い位置から、吼えまくってきた。

 あまりにもうるさいので空き缶を投げつけたが、そんな事じゃちっとも怯まない。そこで、調理用のストーブに火を点けて全開にし、松明のようにして威嚇。これが効いたのか、その後は来なくなった。ようやく静かな時間を取り戻し、山口の地酒を飲みながらゆっくりとした時間を満喫した。

[この日の写真]




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