酒の神様 (岡山〜広島) 2011年11月7日


 旅を始めて1週間が過ぎ、疲れも溜まってきた。毎日腰がひどく痛むのが一番厄介だ。碌な物を食べてないのも原因の一つだろうか。

 旅の食生活はパターン化している。朝晩は炊いた米にレトルト品をかける丼ものか、ペンネやマカロニを茹でてレトルトをかける麺もの。それにおかずとして缶詰の魚を食う。昼は自分で作った同様の弁当か、コンビニでから揚げやカップラーメンなどを食う。

 コンビニでは栄養補給に野菜やビタミンC入りの飲料を買うことも多い。金が余るほどあるなら毎日その地の名物を食べればいいが、そういう財政状況ではないし、むしろ私は自炊も含めた野宿生活を楽しんでいるところがある。
 そんな朝食を済ませた後、相棒のブラザー・カブに乗って岡山城下の旭川を出発。まずは板倉宿を経て、その先にある備中国分寺を観光した。

 五重塔が美しいこの寺は、奈良時代に聖武天皇によって創建されたもの。南北朝時代に焼失して一時は廃寺になったが、江戸時代に現在の寺が再建されたという。
 西国街道起点の東寺にも五重塔があったが、周囲が田園風景で高い建物がないこちらの塔の方が、遥かに見応えがあった。

 矢掛宿で名物「柚べし」を販売する「佐藤玉雲堂」の横で休憩をしていると、おばちゃんに声を掛けられて紙を手渡された。見てみるとそれは金光教のパンフレット。そういえば岡山辺りからこの「金光教」の文字をちらほら見掛けていた。

 後に調べてみると、金光教は江戸時代末期に開かれた幕末三大新宗教の一つ。その本拠地が岡山県浅口市金光町大谷だった。
 金光町の名は金光教の本部があることから付けられたという。「金光教」の文字がこの辺りで多く見られる理由がよく分かった。

 七日市宿にある日芳橋の横には、「川越し上がり場跡」の碑があった。どうやら昔は川を歩いて渡っていたようだ。NHKの番組で街道の歩き旅をやっていたらしく、前に元マラソン選手か何かだった人がここに来たと、近くに居たおじさんたちが話していた。

 高屋は中国地方の子守唄発祥の地で、駅前には銅像や歌の碑があった。古くからこの地で歌い継がれてきた子守唄を、町出身の若き声楽家が山田耕作に披露した事がきっかけで、後に多くの人々に愛唱されるようになったという。

 今津宿の先で広島県に入り尾道に到着。数年前に自転車で四国八十八ヶ所巡りをした後、しまなみ街道を走って訪れた時以来だ。
 その時は駅周辺や千光寺下の斜面に密集した家々を散策した。今回訪れた浄土寺展望台からは、尾道市内や周辺景色を一望できた。

 本郷宿から西条宿へ向かう県道59号線に、建設途中のような真っ赤な鉄の橋が現れた。先端は途切れているが、反対がどこへ繋がっているのか分からない。
 一体これは何だろうと先へ進んで遠くから眺めると、反対には道路のようなものがあり、その先は高台の広い敷地になってた。

 高速道路の建設かと思ったが、後に調べたところ、赤い鉄の橋は何と広島空港の進入灯。進入灯は滑走路と同じ地上に設置されるのが普通だが、山の中に作られた広島空港は滑走路の長さしか取れなかったため、進入灯の部分がこういった形になったようだ。

 古くから酒都として有名だった西条宿には、なまこ壁の酒蔵や煉瓦造りの煙突が多く見られ、「加茂鶴」「福美人」」「加茂泉」などの酒造会社があった。
 周辺には湧水を汲める場所が数ヶ所あり、何本ものペットボトルやポリタンクに水を汲む人の姿が見られた。美味い水が湧く場所なので、ここに酒造会社が多く建ったのだろう。私もついでに2リッターのペットボトル1本分を汲んでいった。

 町の案内地図を見ると、酒の神様を祭る神社を発見。これは拝まねばならんと探したが、見つける事が出来なかった。どうやら酒の神様は「来るのはまだ早い」と言ってるようだ。1人前の飲兵衛として認めて貰えるように、今晩も飲まなければならない。

 日が沈む頃に予定通り海田市宿に到着したが、周辺にキャンプポイントがない。地図を見ると広島市内に何本も川が流れていたので、とにかく先へ進むことにした。

 2号線で一番手前にあった猿猴川へ行ってみたが、辺りは工場地帯でどこにも土手がない。とにかく川沿いに北上していくと、道路の青看板に「比治山公園」の文字を発見。
 案内に従って到着した公園は、人があまり来ない山の上にあるベストのキャンプポイントだった。のら猫が多くいたが、猫なら夜中に来られても問題ない。

 山頂にはNHKの電波塔があり、広い公園内には陸軍墓地もあった。その為か、暗がりに張ったテントの近くからは、お経のようなものが聞こえてきた。酒の神様に早く会うために焼酎を数杯ひっかけて、そのお経を子守唄にして眠りに就いた。

[この日の写真]




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