水難事故 (静岡〜三重) 2011年11月3日


 浜名湖で気持ちよく目覚め、今日のキャンプ予定地の木曽川へと出発。昨日までの2日間で30の宿場を巡ってきた。
 東京日本橋から静岡の三島までは、現在の国道1号線を走る事が多かったが、そこから浜名湖までは細かな旧道を走ったので、ツーリングとしても面白かった。

 それにしても、使用している原付バイクのスーパーカブは本当に燃費がいい。タンクには4リッターしか入らないが1リッターで40kmは走行できるので、ガソリンを入れるのも1日に1回と丁度いい。
 燃費も良く、滅多な事じゃなきゃ壊れないこのスーパーカブ。世界で一番売れているバイクだというのが頷ける。

 やたらと横に長い静岡県は浜名湖までで、ここからは愛知県に入る。新居関所跡を見た後でしばらく走り、白須賀宿の場所の潮見坂を通過して宿場に入る。次の二川宿は少し先なのだが、二川宿の絵の場所は、白須賀宿のすぐ隣にある加宿の境宿にあった。

 その先の吉田宿、御油宿と経て赤坂宿に到着。ここには広重の絵にも描かれている「旅籠・大橋屋」がある。創業1649年(慶安2年)から当時のまま営業を続けている貴重な旅館で、松尾芭蕉も宿泊し、「夏の月 御油より出でて 赤坂や」という句を読んだという。
 次の藤川宿には、棒鼻という石垣が復元されていた。棒鼻とは宿場の出入口や宿囲石垣のこと。江戸当時のものじゃなくても、このように復元されて絵に近いと嬉しいものだ。

 その先の岡崎城下の岡崎宿には、二十七曲と呼ばれるクランク状の曲がり道が多くある。これは外敵に城までの距離を伸ばさせて、防衛することが目的の道。
 一部は岡崎城の城内を通っていたらしい。それじゃまったく防衛の意味がないような気がするのだが。私は面倒だったのでクランクは通らずに、そのまま八丁味噌で有名な八帖町まで進んだ。

 現在の国道1号線を走り、宿場の手前で旧街道に入って抜けるを繰り返し、宮宿の絵の場所である熱田神宮へ到着。ちょうど文化の日で祭日だった為、境内は七五三を祝う親子でごった返していた。

 江戸時代はここから次の桑名宿までは、七里の渡しという東海道で唯一の海上航路だったという。だが、天候次第で船が出ない場合もあったようだ。
 船が出ても安全とは言えなかったので、迂回路として佐屋街道が盛んに利用されたという。街道は宮宿から佐屋宿まで六里の陸路。佐屋宿から桑名宿までは川船による三里の渡しで結ばれていたという。

 キャンプ予定地の木曽川に早く着いてしまったので、そのまま走って三重県の桑名宿まで行き、そこで今日の宿場巡りは止めにした。まだ15時だったので先へ進めたのだが、明日ゴールする京都を夕方到着にする為に調整した。

 予定を変えてしまったのでキャンプ地を探す必要があったが、ちょうどよく桑名宿の渡し場の横に空き地があり、その隣に九華公園もあった。
 祭日で人が多かったが日が暮れれば大丈夫だろうと、近くに見つけた「七里わたしゆ」という銭湯で4日振りに汗を流し、暗くなってから九華公園にテントを張った。

 1日中バイクに乗ってるだけで身体はほとんど動かしてないのだが、意外とこれが疲れるので、テントに入るとすぐ横になって休む。
 毎日野宿をしていると、日の出に起きて日が沈むと眠るといった生活のリズムになる。特にやる事がないのも早く寝る理由の一つだが、この日も19時頃には既に眠っていた。

 深夜0時に小便で一度起きて再び眠ろうすると、外から話し声や物音が聞こえてきた。澄ませた耳の判断では、数人の若者が遠くでテントを伺っている気配。
 嫌な予感がしたと同時に、テントに水風船が当たった。眠りを妨げられてムカついたので、外に飛び出ると3人の若者が逃げていった。

 テントを張ってたのは公園の東屋だったので、もう来ないだろうとベンチに座って向こうの様子を見ていたが、再び遠くから水風船を投げてきた。そしてまた逃げる。これをしつこく繰り返してきた。

 10代の悪ガキなので刺激を求めてるのだろう。もしくは自分たちの縄張りである公園でキャンプしてるのが許せないか。とにかくこちらが行動を起こせば付け上がるだけだ。
 連中は次第に距離を縮め、水風船の数も増やしてくる。このままじゃ安眠できないと思ったので、攻撃を交わしながら荷物を畳み、さっさとその場を去った。

 しばらく揖斐川沿いに走っていくと真っ暗な土手を発見。ここなら誰も来ないはずだとそこにテントを広げ、ようやく深い眠りに就くことが出来た。
 宮宿から桑名宿までは唯一の海上航路で、安全とは言えなかった道中。水や安全ではないといった江戸の名残が、違う形で私には及んだようだ。

[この日の写真]




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