東海道輪栗毛 (静岡) 2011年11月2日


 富士山の眺めが良かった港公園を出発し、昨日に引き続き東海道の宿場巡りへ出発。まず訪れたのは、歌川広重の五十三次の中で最高傑作とされる蒲原宿。雪景色が印象的な絵だが、昔から蒲原ではこのように雪が積もることはないらしい。

 その絵の場所は宿場ではなく、数キロ離れた蒲原駅の近くだった。ここはあるサイトでカシミール3Dというソフトを利用して、場所を特定していた情報を参考にした。
 次に訪れた由比宿のさった峠やその先の丸子宿は、今でも絵と変わらぬ景色が見る事が出来た。このようなそっくりな場所に立つのは面白い。

 宿場には武士や公家が宿泊・休憩をした「本陣」「脇本陣」が残っている所も多く、街道沿いには一里塚も多く見られた。
 一里塚とは旅人のための標として築かれた塚で、榎や松などが植えられた場所。1里は約3、927kmで、これは大人が1時間に歩ける距離を基準にしている。

 東海道は江戸時代に徳川家康の指示で作られたもので、五十三次と称す場合は京都までになるが、大阪までを加えて東海道五十七次とする説もある。
 東京日本橋から京都三条大橋までの距離は約540km。江戸時代の人々はこれを2週間で歩いていたという。
 人の往来で賑わっていた東海道も、明治時代以降には鉄道の開通によって通行人が少なくなり、自然と衰微していったようだ。

 歌川広重は1832年(天保3年)に、御所に馬を納める御馬献上の公式派遣団の1人として東海道を旅した。その途上や帰途で数多くのスケッチを描き、翌年に「東海道五十三次」を発表して風景画家としての名声を手に入れたという。

 実際には広重は旅行していなく、「東海道五十三次」には元絵が存在したいう説もある。それは広重より50年前に存在した、司馬江漢による「春波楼画譜」という画集だ。
 確かに広重とそっくりな55枚の絵があるが、こちらの方が大嘘だという説が有力のようだ。そもそも江漢作と称する画帖そのものが、昭和以降に描かれた贋作であるらしい。

 東海道に関してもう一つ有名なのが、弥次さん喜多さんで知られる「東海道中膝栗毛」だろう。これは日本で最初に文筆のみで自活した江戸時代後期の大衆作家・十返舎一九の作品で、弥次郎兵衛と喜多八が失敗を繰り返しながら東海道・京都・大坂を旅する内容の滑稽本。

 主人公二人の話だけでなく、各地の名所・ 風俗なども紹介したこの作品は大当たりして、続編を含め20年にわたり書き続けられたという。タイトルの「栗毛」は栗色の馬という意味で、「膝栗毛」とは自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意味だ。

 私の場合はバイクなので、「膝栗毛」でなく「輪栗毛」とでもなるのだろうか。とにかく相棒ブラザー・カブと共に、ひたすらに宿場から宿場へと走っていく。
 唯一のナビは自分で作成した文章地図なので、方角が分からなくなる事が多い。道を間違える事がしばしばあるが、意外と問題なく巡れているのには我ながら感心する。

 島田宿に向かう途中で寄り道して蓬莱橋を観光した。この橋は大井川にかかる全長897、4m、通行幅2、4mの木造歩道橋で、明治時代に牧之原台地の開拓農民らの出資によって建てられたもの。
 今では数少ない賃取橋として有名で、「世界一の長さを誇る木造歩道橋」としてギネスにも認定されている。

 金谷宿から日坂宿へ向かう中山峠は、両側が緑一面の茶畑で見事な景色だった。広重の日坂宿の絵には、道の中央に大きな石が描かれている。
 これは夜になると泣くという伝説がある「夜泣き石」。峠の道中にある久延寺境内には、夜泣き石と伝えられている石が安置されていたのだが見逃してしまった。

 さらに先の袋井宿には、広重が描いた茶屋をモチーフに建てらた東海道どまん中茶屋があった。名前の由来は、東西どちらから数えても27番目に位置するということ。写真を撮っていると中に居た爺さん連中に招かれ、お茶と沢庵をもてなしてくれた。

 京都までは文章以外の地図がないので、事前に日程とキャンプ地は決めてある。今日も予定通り日没までに舞阪宿に到着したので、浜名湖湖畔でのキャンプとなった。
 最初は浜名湖ガーデンパークを予定していたが、浜名湖大橋の路肩にいい空き地を見つけたのでそこに変更した。

 近くにキャンプ場はあったが、敢て利用はしなかった。そんな所で高い金を払って寝なくても、湖畔なら空き地はいくらでもあるし、私は無料で出来るゲリラキャンプを楽しんでいる。この先1ヶ月はテントでの野宿生活。久々のワイルドライフは刺激的だ。

[この日の写真]




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