セルビア(66国目)


 ルーマニアのティミショアラからセルビアのベオグラードへはミニバンで5時間。かつては直通列車が運行していたようだが、それは2017年8月をもって停止。
 ミニバンはローカルだが、ツアー会社「GEATURAS」に頼めば、宿からのピックアップで移動できる方法もあるようだ。

 共和制のセルビアはかつてユーゴスラビアの中心で、政治的にも核となる国だった。ユーゴの始まりはオーストリア帝国の皇太子がセルビア人青年に暗殺され、第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエボ事件」に遡る。

 その大戦の結果、セルビア王国は甚大なダメージを受ける。そして世の中は帝国主義の流れを終え、民族のことは民族自身に決めさせようという時代が到来。
 そこで、それまでイスラムやゲルマン系が支配してた帝国から、南スラブ系の民族が独立し、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロベニアの4つの地域で「ユーゴスラビア王国」を誕生させた。

 第二次世界大戦のドイツ軍の攻撃でユーゴは滅びかけるが、最終的にドイツ軍を追っ払うことに成功。それを成し遂げたのは国の正規軍ではなく、チトー率いる反政府のゲリラ組織。

 この時にユーゴの王は国外に逃亡していたので、チトーは王の帰国を許さずにそのまま自分で国を統治して指導者に。国名も「王国」でなく「連邦人民共和国」に変更し、後には「社会主義連邦共和国」とした。

 この頃には前途した4つの国に加え、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアと、セルビア国内のヴォイヴォディナとコソボによって連邦は構成。
 当時強力だったソ連とは一線を画した独自の社会主義路線を進め、ソ連からの圧力を跳ね付け、ユーゴはヨーロッパでも強大な軍事力を持つ国となった。

 だが、1980年にチトーが死去すると、社会主義に対する不満を抱えていたユーゴ国内の各地の不満が一気に噴出。それが後にユーゴスラビア紛争と繋がっていく。
 1991年に、クロアチアとスロベニアが独立を宣言。ユーゴ連邦は2国の言い分を認めず、スロベニアに軍隊が侵攻。これは10日間で終結したが、クロアチアとの間では激しい紛争が繰り広げられる。

 1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言して「ボスニア紛争」が勃発。これはヨーロッパ最悪の紛争と言われ、国際的にも大問題となる。
 1995年には国連がクロアチアの独立を承認。クロアチアも国内の一部をセルビア人居住区として分離し、セルビアへ併合すること合意してクロアチア紛争は終結。

 ボスニア紛争も国土をクロアチア人・ムスリム人の国とし、「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア人の国としての「スルプスカ共和国」に分離することで終結。
 ところがこの決着によりセルビア共和国政府が、各地のセルビア人難民を強引に共和国内のコソボ自治州へ移民させようとした為、自治州内の90%を占めるアルバニア系住民の民族派が反発し、「コソボ紛争」が起きる。

 マケドニアは独立紛争を経て1992年に独立していたので、この時点でユーゴ連邦はセルビアとモンテネグロの2つだけになり、2002年にはセルビア・モンテネグロという共同国家という形に変える。
 2006年にモンテネグロが分離独立したことによりセルビアも独立し、遂にユーゴスラビア連邦は名実ともに消滅するこになった。

 この妄想旅行は実現可能なルートで進み、都内各所でその国の料理を食べているだけだが、通過する国の事を調べてみると、世界各国の関係なども少しは理解出来る。
 アフリカ諸国やこのユーゴスラビアなどは、紛争のニュースのなどで国名を耳にした事もあるが、その理由までは分からない。なので、この妄想旅行はそんな点で勉強になっている。

 それはともかく首都のベオグラードでは、代表するシンボルのひとつで「聖サヴァ教会」、空爆の跡が生々しく残る「NATO空爆ビル」、
 町の中心にある石畳の遊歩道「クネズ・ミハイロ通り」、ドナウ川とサヴァ川の合流地点を一望できるカレメグダン要塞」などを観光、と妄想はここまで。

 さて、今回セルビア料理を食べようとしたが、東京近郊にレストランがなかったので断念。セルビア料理の特徴は周辺国と似ていて、トルコ料理の影響を受けている。
 主食は「フレブ」というパンで、スパイシー挽肉を棒状焼いた「チェバプチチ」や、その形違いでハンバーグ状に成型した「ピエスカビッツァ」などを挟んで食べる。

 他にはローストした肉の「ペチェネ」や、肉野菜煮込みの「ジュベチ」、それと周辺国にもある挽肉とじゃがいもの重ね焼き「ムサカ」、発酵キャベツで挽肉を巻いたロールキャベツ「サルマ」、肉煮込みの「グラーシュ」などが代表のようだ。



 

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