管理人の爺さん 2009年6月24日


 三原山トレッキングから戻った日の夕方、底土野営場の調理場でキャンプ場の管理人だという爺さんと出会った。80歳位の爺さんは島の生まれ。話している声や素振りからは、見た目の年齢よりも若く感じる。
 何気ない世間話から始まった爺さんとの会話だったが、やがてそれはどこまでが本当なのかと思う武勇伝に変わっていった。

 爺さんは戦前に山形に疎開した。そこで何かの部品を作る工場の工場長を任されていたという。戦争時の食料事情では、米は貴重なものだったのだろう。そこに目を付けた爺さんは農家から米を安く買い、それを東京に運搬して高く売ろうと考えた。

 だが、当時は一般人が同じ事をしても余程巧みに隠さなければ、検問などですぐに見つかって没収された時代。
 そこで、爺さんは知り合いだった政治家に頼み、軍隊のトラックに米を積ませてもらったという。軍隊のトラックなら検問などフリーパス。これでボロ儲けしたようだ。

 方々に顔も効くようで知り合いも多く、いろんな名前が出てきた。例えば、東海汽船の社長と友達で、電話一本でいつでも小笠原諸島には無料で行ける。
 また、東海大学の校長や有名な電気店の社長とも知り合いで、この底土野営場で宴会をしたことがあり、石原慎太郎や鳩山一郎、数人の現職議員なども仲間だと話していた。

 爺さんの子供は娘だが、もし息子だったらアメリカのハーバードに留学させて議員にし、サイパンをどうにか出来たのとも豪語する。
 東京都内にも住んでいたことがあり、その頃に購入した270万円の土地は、バブルの影響で後に何十億に化けたようだ。現在も都内にマンションもいくつか持っており、その一つには娘が管理人として住んでるという。

 とにかく、あらゆる武勇伝を話すのだが、どうみても普通の爺さんにしか見えない。底土野営場にはママチャリで来ており、前籠には鎌が数本入っていた。そして、調理場でガスコンロを洗っている。

 東京にマンションを数件持っているなら、その収入で遊んで暮らせると思うのだが。まあ、このキャンプ場の管理人は25年前からボランティアでやっていると話していたので、もはや金銭感覚は超越しているのだろう。

 近くにある自分の畑ではスイカやオクラを作っており、そのオクラが一回で200本収穫出来ると嬉しそうに語る。何十億だとか聞いた後だけに、200本のオクラはスケールが小さく感じた。

 キャンプ場の印象を良くしてリピーターを増やすために、椰子の木を植えろと役所に言ってるのだが、ちっとも聞いてくれないとの愚痴もこぼしていた。
 政治家の知人がいるならそのコネを使い、このキャンプ場に椰子の木を植えることくらい容易いと思うのだが。

 様々な職業や悪知恵で稼いだ金は、カリブやハワイなどのリゾート地で遊んで使い果たし、今は何も残ってないという。「泡銭は残らないもの。地道に稼いだ金だけが肥やしになる。それを今の内に残しておかないと、年取ってからでは遅い」。
 そんな格言を聞くとやはり大物だったのかとも思えるが、最後に「水戸黄門を見るから帰る」と去って行ったのを考えると、やはり凡人にも思えた。

 一週間滞在した八丈島だったが、観光したのは実質3日で、残りの4日は雨でどこにも行けなかった。おまけに、最大の目的だった青ヶ島も、フェリーの欠航で断念することに。
「日本の秘境100選」には行けなかったが、「日本の偉人100人」ともいえる人間味溢れる爺さんに会えたのは、この旅の締めには一番相応しかった。


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