遭遇比律賓人 (香港) 1998年5月9日


 初めて海外を一人で旅したのは香港だった。その旅の本来の目的はイギリス一周だったのだが、購入した格安航空券が香港経由のイギリス行きなので、行きか帰りに四日間まで香港でのオーバーステイが可能だった。

 1つのチケットで2つの国に行けるなら利用する他ないと、まず香港に3日滞在することにした。初めての一人旅でろくに英語も話せないのに、英語圏でもない香港を最初に選んだのは、まあ若気の至りだろう。

 当時の香港の国際空港は、世界一着陸が難しいと言われていた啓徳空港。飛行機は噂どおりに林立するビルの間に墜落するように降りていった。
 初日から宿探しに四苦八苦するのは困るので、香港島の山の上にあるユース・ホステルのドミトリーを日本から電話で予約していた。

 今では九龍にある重慶大厦(チェンキンマンション)に安宿があることを知っているが、その頃はなんの知識や情報も無ければインターネットもない時代。
 ましてや海外の一人旅が初めての私には、ガイドブックだけが頼みの綱。それで一番安いユース・ホステルをその中から選んで予約しといたという訳だ。

 空港からユース・ホステルまでのアクセスは調べておいたので、そのバスに乗って上環にあるマカオ・フェリー・ターミナルへ行き、さらにバスを乗り換えて宿を目指した。
 ユース・ホステルは山の上にあるので、その中腹がバスの終点だと調べていたのだが、終着したのは山の麓。おかしいと思ったが運転手が宿は向こうだと指差すので、それ程遠くないのだろうと歩き出した。

 蒸し暑い中で重い荷物を背負って坂道を30分程上がって行ったが、到着したのは私が想像していたバス停。そこからさらに急な山道を20分ほど上がり、汗だくになってようやく宿に着くことが出来た。

 空港から宿までタクシーで行くのはつまらないので、ローカルのバスを利用したまではいいが、初日からこんな登山が待っているなんてことは想像もしてなかった。
 後で知ったのだが、宿からフェリー・ターミナルまではユース・ホステルのシャトルバスが一時間おきくらいで運行されていた。

 それから3日間、2階建てバスや地下鉄を利用して、上環のガラクタ市、町を一望できるヴィクトリア・ピーク、看板が並ぶ九龍のネイザンロードなど、香港の町を散策した。
 カジノで有名なマカオへもフェリーに乗って訪れた。蓋を開けてみれば結構心配していた一人旅も案外スムーズに行くものだなと、この香港で自身が付けることが出来た。

 イギリスへのフライトは夕方だったので、最終日はチェックアウトしてからバッグパックを背負ったまま、九龍のネイザンロード付近を再度散策した。
 尖沙咀にある時計台へ行くと、近くに組まれたステージがあり何か催しをしていた。何だろうと眺めていると、アジア系の顔立ちをした浅黒い肌の男が話し掛けてきた。

 男は私が日本人だと分かると陽気になり、さらに色々と話し始めた。英語を覚えたての私にはどんな会話も新鮮で刺激的。男の英語の発音には癖があったので所々理解出来なかったが、勝手に解釈しながらフムフムと話を聞いてみた。

 男はフィリピン人で、日本人の婆ちゃんと田中さんという友達がいる。フィリピンでは長渕剛の「乾杯」が流行っていて、若い女の子がキャーキャー騒ぐほどらしい。
 それと、近くのホテルに母親が泊まっていて、ずっと泣いている。理由は娘が日本へ行くことになったからだ。日本での滞在先には日本人の婆ちゃんがいるが、どうやら行く目的は水商売で働くためらしい。

 それでこの男は、よかったら自分と一緒にホテルに行き、泣いている母親に、「日本の水商売は危険じゃないから、何も心配することはない」と母親に言ってくれと本題を持ち掛けてきた。

 英語のヒアリングの上達のために話を熱心に聞いていた私だが、さすがに途中からこれが真実ではなく、私を誘き寄せるための罠だということも理解していた。ホテルに行けば仲間が待ち伏せており、そこで身包みを剥がされるのがオチだろう。

 忙しいから無理だときっぱり断ると、男は泣き落としの顔で、「私は田中さん知ってる。友達。心配ない。だからホテルに一緒に来て」などと、終いには日本語で強引な誘い方をしてきた。私の中では男の会話の主役は泣いている母親よりも、むしろ田中さんとしか思えなかった。

 ホテルに誘い出すにも、もう少し他の手口がなかったのか。それなら友達の田中さんか日本人の婆さんに頼みなよと、私は鋭いツッコミを入れた。男はそんなツッコミにもうろたえずしつこく悲願してくるので「もう行かなくちゃならない」と私はその場を去った。

 もしホテルについて行ってたら、泣いているのは男の母親ではなく、間違いなく私だったろう。外国の旅は初心者であるが、私はこれだけは知っていた。「君子危うきに近寄らず」ということを。


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